夜の学校、玉手箱

澤田眞宏です。日記です。宜しくお願いします。

2020年の私に起きたこと

父は子供の教育方針に口を出さない。母には言ってるのかもしれないけど。私は少なくとも言われたことがないし、言われたことで選択に影響を及ぼした自覚がない。幼少期から「育てられた」自覚があるのは母だけである。父には毎年、夏休みは毎週のように遊びに連れ出してもらった記憶はあるが、進学などに関して何か言われたことはない。父の職種上仕方のない部分があるにせよ、同じく正社員で働いていた母がすべての家事育児を担っていたように思う。

今朝、生まれて初めて、そんな父が私の人生に関して口を出した。たった一言、インターネットで100回は見た言葉だった。

「古い考えかもしれないけどさあ、結婚して子供産まなきゃでしょ」

「うん、古いよ、それはわたしの自由だよ」

こう返した瞬間は寧ろ面白いとすら思った。父は今まで私の選択に肯定することはあっても否定することも強制することもなかったから、まさかそんなこと言うのかという驚きと同時に、「女はそういうことを言われる可能性に溢れている」というインターネット過学習(事実である)のおかげで言い淀むことなく返せた自分にも驚いた。ウケる。ウケない。

私は現時点で妊娠出産をしたくないという強固な意志がある。これは私の人生で、誰かのために子供産むわけじゃないから。私が産みたくないんだから将来のパートナーに言われても拒否することができる。

「古いよ」と返してフンとなった私に、母からの援護射撃が出てきたのが今朝の嬉しい出来事である。

「それはこの子が決めること」とか、「私はお義母さんに早く産みなさいとか跡取り産みなさいとか急かされなかったのが嬉しかった。されてたら離婚だった」とか。ばあちゃんが母に急かしてたら私も弟もこの世にいなかったのめっちゃ面白いな。うちの家系の男児は早死しやすいから、急かしてもなんの得は無い。

母に「人間も卵で産めたらいいよね、あんたが産んだ卵毎日あっためてあげるよ」とか言われた。よくわからん。

延べられた手を拒んだその時に、

大きな地震が起きたとする。わたしは瓦礫に腹を貫かれ死ぬ。こないだ買ったパソコンもバキバキのiPhoneもママも犬もぺしゃんこになった。遠くのあの人は、わたしが死んだことを知らない。会わない話さないわたしの存在が、彼の記憶から薄れていく。ずっとずっと時が経って、忘れた頃に、人伝てにわたしが随分前に死んだことを知る。いっしゅん、感傷に浸る。すぐに紛れる。彼には呼び起こすわたしの記憶が無い。わたしは彼の中からいなくなる。そうなりたい。タイトルに含意は無い。

想像上の嗅覚

きみの言葉を見ているとね、きみが今まで見てきたこと聞いてきたこと感じてきたことの香りがするんだ。ぼくはきみのことを何も知らないけど、なんとなく曲を聴いて思い浮かぶ情景とか香りってあるでしょ?そんな具合に。ぼくはきみについて、きみが教えてくれたことしか知らないのに。けっきょく、どこで育ってどこの学校に行ってどこで遊んでどんな人たちに囲まれて過ごしたか聞いたって、想像はぼくのものなのに。想像は、ぼくの人生のものなのに、まるできみのもののように感じてしまうんだ。それでもぼくは切なくなって、勝手にきみのいままでに思いを馳せて、泣いちゃったりするんだ。きっときみの思い出を、ぼくのそれに重ねてるだけなのに。それが不幸だとも思わないけどね。うん、初夏の雨上がりの早朝、まだ日がぼくたちを刺さないくらい。

あってもなくてもいいような4年間だった。

同期が卒業した。

 

仲良くもなければ悪くもない学科の友人たちが、つかず離れず助け合って卒論を書き上げた同期のゼミ生が、なんだかんだ縁が続いて卒業まで友人をしていた他学科他学部の同期が、卒業した。もう彼らの姿はキャンパスでは見られない。

休学していたわたしにとっては毎年恒例の長い長い春休みなので、地続きで特に変わらない生活が待っているので大した実感はなかった。高校の頃、先輩の卒業式で大泣きしていたわたしはどこに行ったのか?

その日はゼミで集まって、わたしはいつも通り遅刻して、着飾った彼女らと写真をたくさん撮って、前日夜なべして書いた手紙を渡して、しばらくしてじゃあまたって。感動的な別れとかなく。泣いて別れるほどじゃなかった。心地よく、助け合えて、たまに遊んだらたのしい。わたしの良くないところにうんざりしているとしても、それを嫌がりも指摘もしない、一時的で素敵な関係だった。たぶん、半年に1回くらい会うし、ディズニーランドには絶対に遊びに行く。

でもわたしはどこかで、4月のゼミでまた会えるとすら思っているのかもしれない。キャンパスを歩いていたら、見慣れた同期に会えることに期待しているのかもしれない。開講を迎えて、寂しいと思うことが怖い。ちゃんと寂しさを乗り越えられるだろうか。

 

来年の今頃、あってもなくてもいいような5年間について、なにか考えることができるのだろうか。

わたしを飲み込まない夜!

3/18度は庚申(60日にいちど訪れる、夜寝ると体内にいる虫がその人間の悪事を天帝に伝えて、人間の寿命が縮むといわれている禁忌の日)なので、夜学バーで庚申講をしていました。同年代らしき人がたくさんいて、とても楽しかったです。夜学バーにいるとあっというまに時間が過ぎてしまいますが、夜通しとなるといつもとは違い、長い沈黙もなんてことない贅沢時間の使い方でした。

 

なにかの流れで、修学旅行の夜の話になりました。好きな子の名前とか言っちゃって、世界でいちばん平和な時間だね、という話でした。なんらかの思惑が飛び交うから、いちばん平和かどうかわからないけど。息を潜めて、くすくすと笑い合えるようなことはとても幸福で高級なのだと思う。

 

話は変わりますが、わたしは午前1-5時の外出が大好きです。むしろ、その時間帯そのものが好きだったりします。それなりに厳しい家なので、夜9時以降外に出るのを大学生になるまで許されてなかったからこその憧れもあるかもしれません。わたしにとって深まった夜は、心の苦しみと同居した鬱屈としたものでした。

お外に出ると、おはようの人、おやすみの人の息遣いがちいさく感じられて、空気はひんやりして、なんとなく澄んだかおりがします。さわやかな夜!わたしの部屋とはちがう夜!

そんな大好きな時間帯に、ミルクセーキに使う牛乳のおつかいを兼ねてその場にいたふたりの若い人(とか言ったけどたぶん開いて2歳くらいしかちがわない!)とお散歩に出ました。深夜徘徊の会。深夜徘会!御徒町の小さな一角をくるりと回っただけ。知らないお兄さんに物珍しそうに見られました。ふと目に入った年季を感じる建造物が何故かあかりが灯って開いていたので、なんとなく足を向けました。映画やホラーゲームに出てきそうな雰囲気で、あかりが冷たいオレンジ色だったり銅像や日本人形があったりしたせいでほんとうにこわくて、これで入口の扉がひとりでに閉まったりなんてしたら失神したと思います。加えて同行者がやたらと怖がらせてくるものだから!!

こわくて飛び出すように建物を出て、恐がるわたしを見てふたりが笑って、なんだか楽しくておかしくて。修学旅行の夜みたいに!

責任者はどこだ。

ここ一年、頑張ろう頑張ろうと自分に言い聞かせながら自堕落な生活をしている。頑張ったら疲れちゃうから頑張らないのが仕事だよ、と言い聞かせてもいる。頑張り方を忘れてしまった。

大学2,3年生の時は、1年生のときのツケを支払うように教職課程を含めた単位の回収、徐々に厳しくなっていく専門の勉強、先代部長が失踪しておじゃんになった文化祭を皮切りに部活動の立て直し(部長は1年半やった)、精神的に苦しい某ハンバーガーショップのバイト、はじめての固定シフトの塾講師のバイト、とがむしゃらだった気がする。ただ、自我なんかどこにもなかったように感じる。なにも考えられていなかった気がする。そんなことないだろうけど。

書き連ねて思ったが、「苦しい」と感じた全てを切ってきた。

教職課程を辞退し、部活は引退。バイトは店舗を変え、休学し、塾講師も辞めた。私に残ったものはなんだろう。

「頑張る」にはある程度の苦しみが必要なのか?

苦しくて堪らなかったあの2年間は苦しいなりに充実していたと今でも思う。「頑張っていたなぁ」と。ただ、あの時の記憶は薄らぼんやりしていてあまり思い出せない。苦しくてフラフラしながら歩いていた。課題もどうこなしていたかわからない。ああ、時間があればあれ読んでこれ勉強して…とか思っていた。馬鹿め。半年空いても何も出来なかったよ。

私は多分加減が下手くそで、死ぬギリギリまでやって、全部辞めてしまう。そしてまた、全部始めようとしている。へたくそめ。

頑張ることは苦しみなのだ。そんなことすら気付けない。苦しくないことに、頑張らないことに慣れてしまった。

どうやって頑張ればいいのだろう。強制力のない世界で、わたしはどう自律すればいいのだろう。責任者はどこだ。